一日一編の法話 動画など
世の中には知らない方がよいこと、知ることの不幸があります。
知ればこと腹も立つが知らなければ仏様のように平穏な境地でいられます。
「聞かぬが仏、見ぬが極楽、無知は幸福」などの語をてんじて「知らぬは亭主ばかりなり」の川柳のように、当人だけが知らずに平気でいるさまをあわれみあざけっていう語もあります。
平穏な境地でいられる「知らぬが花」が幸せですね。
山に入って思いっきり深呼吸をすると気持ちが爽やかになります。
漢字では書く呼吸の「呼」とは息を吐くことであり呼が先にあるように、吐く息を大切にすることで体内の炭酸ガスを放出し、より多くの酸素を吸収して人間の持っている偉大な力「自然治癒力」をより強くするといいます。
相手と自分の調子を合わせることに「呼吸を合わせる」、気持ちがぴったり一つになる事を「息(意気)が合う」といいますが、呼吸は他の人との調和を生む力になるのです、
真心をもって他人の過失、欠点を思う時の叱りや忠告は相手に通じます。
しかし感情からの忠告は、自分の心を満足させたい優越感からのものですから相手には伝わりません。
相手のことを心から思っての叱りなのか、自分を満足させたいための自分の都合ばかりでいう忠告なのかをよく考えねばなりません。
「馬は川辺に連れて行くここはできても、水を飲みたくない馬に水を飲ませることはできない」
という諺があるように、相手のこともよく考えねばなりません。
叱りつけてばかりいないで誉めてあげれば、周りが明るく楽しくなりますb。
世間では仏壇の掃除、線香、膳のあげさげをよく行う人を信仰心が深いとが信仰心があるといいますが、この人はただ先祖に感謝御礼を表現しているのです。
私たちが信仰する対象は絶対に信頼できるものでなければなりません。
信仰心とはお釈迦様の教えを心の底から信じ、お釈迦様に身も心も捧げるという敬いの心をいうのです。
信仰する者にとって最も悪いことは増上慢(ぞうじょうまん)です。
人前で最もらしい口をきいたり、自分こそ信仰心が強いのだと形の上だけで主張し、内心適当にやっているにすぎないなどは、お釈迦様はお見通しです。
いつも反省修行する「ひかえめ」な心構えこそが信仰する者の態度です。
人間は心のどこかに不安や不満の悩みがあり、この煩悩を断ち切ろうと努力するところに信仰の芽が生まれます。
しかし信仰というのは信じきってすべて任せてしまう不思議な魔力を持っています。
こんな不思議な魔力を持つ信仰には充分注意し、目先の甘い汁にまどわされぬよう、心身の鍛錬を積まねばなりません。