立正寺の由来

         安国山立正寺は

近代日本の代表的な日蓮仏教の改革者として名をのこした、「本多日生] が神戸市に第4布教所を開設したことに由来致します。

 

【本多日生師略年譜】

 慶応3年3月13日 藩州姫路市藩士国友堅次郎氏次男として出生す。母は勝子夫人幼少より仏縁淳厚、同市妙善寺 本多日境師に奉待し、姓を本多と改む。


明治12年 8月  同市妙立寺池田日昌師に就て得度し、聖應と号す。

 同年 秋    池田師遷化の為、兒玉日容師に附弟し、又漢学を西穀一氏に学ぶ

明治16年4月    教導職試験に優等合格す。

明治17年9月    堺市妙満寺住職となる。

明治19年     上京して東洋大学の前身である哲学館1期生となる。のちに同校の顧問となる。

明治21年10月   少学統に補せらる

明治22年1月    宗制原案起草委員を命ぜらる。
 同年3月     姫路市妙善寺住職となる。
 同年4月     中学統に進す、又公会議員に当選す

明治22年7月    東京浅草盛泰寺に転任す
 同年8月     大学統に昇進す。
 同年9月     浅草圓常寺に転任す。

明治22年8月    宗門要書取調委員長に任命さる。
 同年11月    教務部長に任命さる。

 同年12月    権僧都に昇進する。

明治24年4月   浅草慶印寺住職兼任す。
 同年5月     依願教務部長被免。
 同年7月     慶印寺兼務解任。

明治25年1月   突如剥業処分に附せらる。
 同年12月    浅草區新福井町に顕本法華第一宗義布教所を設置す。

明治26年2月    岡山市に第二布教所を新設す。
 同年11月    津山市に第三布教所を開設す。

明治27年10月  神戸市に第四布教所を開設す。(現立正寺)

明治28年4月    宗門に復籍す
 同年7月     巡回布教員を命ぜられる。
 同年10月    本宗宗義網要の編纂を委嘱さる。
 同年12月    大学林長に任命さる。

明治29年2月    僧都に昇進す。
明治29年4月    監督布教師を命ぜらる。
 同年10月     財務部長を命ぜらる。
 同年12月     教化を目的とする統一団を組織す。また法務部長に転ず。

明治30年5月    品川妙国(國)寺に住職す。

明治31年7月    宗務総監となり法務部長を兼任す。
 同年11月     日蓮宗妙満寺派を改め「顕本法華宗」と公称認可。

明治32年10月   僧正に昇進す。

明治33年3月    内務省より官長事務取扱を命ぜらる。

明治35年5月    大僧正に叙せらる。

明治38年5月    学宗一致管長に当選し、爾来(じらい)二十有七年間勤務し、宗風大に革まる。

明治42年1月    日蓮主義の研鑽を目的とする(天晴会)、婦人教化を目的とする(妙経婦人会)を組織す。

 

明治43年 夏    経典賛仰者の為に講妙会を設く。

明治44年6月    婦人の為地明会を起こす。

明治45年4月    浅草に布教道場として統一閣落慶す。

大正4年6月    日蓮門下六宗団の統合成立。

大正6年3月    仏教界未未曾有の快著大蔵経要第1巻出版。以後隔月1巻発行し全11巻に達す。
         其他聖訓要義10巻、法憧、日蓮聖人の感激、法華経要義、日蓮主義真髄、日蓮主義精要等、
         更には法華経講義2巻、聖語録等、不朽の名著あり。
         是等幾十の著書は等身を超え、其法筵は実に1万座を遥かに突破せり。
         機関紙統一は明治30年1月以降尚継続し巻を重ぬる五百数十に及び宗教雑誌の最長老たり。

 

大正7年3月    労働者善導を目的とする自慶会を組織し、又更に教化団体総合会の創立に参加し幹部として貢献大なり。

大正11年10月   日蓮聖人立正大師諡号の事に盡す、此の大師に因みて立正結社を組織す

大正15年5月    九期の管長を辞任す。

昭和3年7月    思想善導の目的を以て知法思国会を創設す。
 同年11月    功により特に天杯を恩賜され、また文部大臣より多年社会教育に於ける顕著なる功績を表彰せらる。

昭和4年3月    法統愛護にて同師会を結成す。

昭和5年10月    統一団協賛会の計画に参与する。

昭和6年3月16日  癌腫性胃潰癌の為遷化する。(世寿満 六十有四歳)

 

【立正寺 歴代住職】

開基一世 聖應院日生上人

二世   無印院日慈上人

三世   本光院日道上人

四世   聖学院日成上人

五世   浄敬時代