一日一編の法話 動画など
人間は妄想・雑念によって精神が濁り、善悪の判断が失われます。
例えば水の表面に波がたっていると、その底の状態は見えませんが、波がおさまると浅い・深い・魚がいるなどがよく分かるようになります。
人の心も同じで、妄想・雑念がおさまると精神が澄み知恵が開けてくるのです。
「バカになれ」ということがありますが、自分を抑えてがまんする「何を言われてもバカにる」ことは意味深いことなのです。
近年仏教儀式でる「ほとけごと」が簡素化、簡略化されて軽んじられる傾向にあるように思われます。
私たちは自然の恩恵に守られて、周囲の人々に支えられ包まれて過ごしてきた今、親のありがたさにあらためて感謝しなければなりません。
葬式、法事、墓参り、お盆、お彼岸といった、死者儀礼の行事は親族、親戚の疎遠を防ぐ唯一大事な行事です。
日本人は「死者と共に生きる」民族といわれています。
故人を葬ってそれでおしまいという民族ではないのです。
身内の付き合いが深まる「ほとけごと」はご先祖様への報恩であり、大事にしなければなりません。
寺院の内陣と外陣との間、僧俗の座席を分かつ区域に置かれた木柵、これを「結界」といいます。
茶道では、茶室に入る時や掛軸・お道具拝見の時、客は扇子を自分の前に置く行為をしますが、これは自分の領域を示す「結界」を意味しています。
ここから先は相手の領分と決めることによって、先方への尊敬の気持ちを表しているのです。
仏教の根本はまさに敬いの心です。
結界はひとや物に対して謙虚に敬う心を教えています。
手のひらを合わせて神仏などを拝む合掌の姿は、尊いものに頭を下げる畏敬の念と少しでもそれに近づこうとする菩提心が養われます。
この世とあの世は隔てなき世界。
手を合わせる心に念ずれば必ずあの世に通じます。忘れてはならないことは決して一人ではないということです。
手を合わせるところに亡き人はおいでになられます。
合掌の精神を省みたいものです。
何気なく毎日を送っている私たちの周りには、事故や災難にあったり病気になったりして苦しんでいる人たちが大勢います。
自分の身に降りかかってこなければ安穏な日として過ごしています。
「生あれば死あり」 死の悲しみは誰しも生涯のうちで何度かあります。
その悲しみや苦しみが大きければ大きいほど修行するための「種」となって魂を磨くのです。
仏様の前に立って手を合わせ、「自分は今、仏様の後光に包まれている」とそう思った時、ほんとうに後光に包まれているから不思議です。
「人事を尽くして天命を待つ」。