一日一編の法話 動画など
室町中期の禅僧一休禅師のことばに、
「親死ぬ子死ぬ孫死ぬこれあたり前」(順縁
「孫死ぬ子死ぬ親死ぬこりゃ大変」(逆縁)
とあります。これは順縁がいかにめでたいことかを諭されているのです。
しかし大変な逆縁にあうことで人は仏法を求めるようになり、その逆縁に合掌できるとき、
人の生きる道が開けるのです。
地上の存在するすげてのもの、今吐いた息の中に含む酸素や炭素、そのすべてが草木の一部となり、すべてのものと交換し合って縁となり、
巡り会う出会いこそが人生の一大事と言われる由縁です。
昼間の星は見えませんが存在するように、有無にかかわらず、すべてにゆきわたる慈しみの心、それが仏教の慈悲です。
仏事の習慣が薄れつつある近来、お盆の行事は先祖への感謝と命の大切さを尊ぶ大事な行事です。
是非お盆の行事と先祖供養の縁を結びたいものです。
初唐の詩人劉廷芝(りゅうていし)の有名な詩に
「年年歳歳花相にたり、歳歳年年人間じからず」とあります。
この詩には、自然は変わらなくても人の境遇はたやすく変化するという諸行無常が詠みこまれています。
私たちはこうあって欲しい、ああやって欲しいと願っても、すべて変化してゆくためそこから苦しみが生まれます。
これを乗り切るためには忍耐、こらえること、我慢することが必要です。
物事に耐えることができないと、自他の生命が軽視されて現生では大変なことが毎日のように起こっています。
忍耐は相手に同化するゆとりとおおらかな心を養ってくれるのです。
錆とは鉄自身から出るもので外から鉄に錆がつくことはなく、鉄が自分自身を腐らせ蝕(みしば)みます。
悪は人から出て人を蝕むように、悪事をなせばその責を負うのは自分自身。
病気で不養生をし身をそこなうのも自分自身。自ら三毒という錆を出して自らを腐らせてしまう可能性は誰もが持っています。
刃物も錆が出ると価値がなく、自分の蒔いた悪行は自分に降りかかる因果応報を受けねばなりません。
私たちは自由と言う言葉をよく使います。心のままに思う通りに...。 古くは勝手気ままの意に用いられたようですが、
自らに由(よっ)て生きるのが自由です。
とにかく問題が起こると、私たちは自分を守るために冷静さを失い、自縄自縛で色んな行動に出ます。
しかし正しく物を見ることができる知恵の眼が開かれれば、自縛が解けてこだわりがなくなり、本来の自分を取り戻すことができるのです。