一日一編の法話 動画など
「獅子身中の虫」という言葉があります。獅子の体内に寄生して恩恵を蒙っている虫が、獅子の肉を食べついには倒してしまうという
恩を仇で報いるということのたとえです。
本来は信徒が仏法を害することへのたとえで仏典の中に出てくる言葉です。自分自身の体内には自分を蝕むもう一人の自分がいて、
一時的な享楽や欲望で自分を破壊への道へと誘惑するというのです。
常に「身中の虫」と闘って健やかな毎日でありたいものです。
旅をして自分の行き先が右か左か分からなくなったとき、人に聞けばよいものを自分勝手に決め込んで行けども行けども目的地に
達せず損をしたということがあります。
「人間の一生の道」にはいくつかの分かれ道があり、利巧ぶって我を張って迷える我が道を行く人がいかに多いことでしょう....。
「知らぬ道知った顔して迷うなり 聞いて行くのが真の近道」
知らずしての盲歩をやめ、知らぬと正直に言うことが世の中に迷わぬ信の近道なのです。
人間は各々個性を持ち、歴史を背負って生きています。
血のつながり情のつながり、すべて割り切れない不思議さの中で、他人に迷惑をかけたり、怒ったり笑ったり、嘘をついたり善いことをしたり、
あらゆる経験を積んで自身の人格を作りあげていきます。
心に迷いが生じ不安定になると、祟りをする悪鬼その人の体内に入り込んで乗り移り憑依することがあります。
仏教でいう「悪鬼入其身」です。
自分のためばかりでなく周囲への大きな影響力も考え迷妄してはなりません。
葬式の意味の一つは目の当たりにした逝きし人の姿を見ることにより、忘れていた死、無常の足音をごまかすことなく聞き、見据えることではないかと思います。
逝きし人が一生の最後に自分の全心身をあげて後に残る者たちち残す遺言の一言があるとしたら
「死ぬんだよ、あなた方もこの私のように必ずその日がやって来る。しかもいつやって来るかわからない。予告なしに、いつ死んでもよいように毎日毎日時間を
大切にいきなされ」
ということではないかと思います。
このいとことを心の奥から聞く、それが葬式の意義であり、そのように毎日毎日を真剣に生きること、それこそが亡き人への真の供養となるのだと思います。
仏教では正しきことにひたすら努力・励むことを精進と教え、反意語には怠けおこたることをさす懈怠(けたい)があります。
なまけは貧乏の温床として強く戒めています。精進には貧乏はありません。
「右は極楽、左は地獄こころ一つが道しるべ」。
貧乏の温床を作らぬ為にも懈怠の心を起こさず、ただひたすら精進して、正しく世を益し自分も益してゆく共存共栄だ繁栄する
精進に徹せねばなりません。