一日一編の法話 動画など
ここ最近、盛んに報道されていWBC(ワールドベースボールクラッシック)での日本チームの活躍に元気をもらっている方も多いのではないでしょうか?
そこで、侍ジャパンと呼ばれる所以を少し考えてみました。
1700年代初頭に鍋島藩(佐賀県)の家臣が口述して世に広まった「葉隠れ」がまず思い浮かびます。
~武士道というは死ぬことと見つけたり~ の一句が有名です。
しかしこれは死ぬことを強要するのではなく、生死を超えた境地に到達することにより、武士の職分を果たす事が出来るという意味です。
争事の無い江戸時代が半ばに差し掛かると、武士道の精神は、武士から庶民にもいくつかの書物により広がって行ったそうです。
その一つ「可笑記」が説いている武士道の教え
「嘘をつかない」「卑怯な真似はしない」「最後まで誠実に行動する」
などが現在の日本人の精神構造に脈々と流れているような気がします。
あの大谷選手が自分の成績よりチームの勝利を優先させた、まさかのバント!
デットボールを相手バッターに当てた佐々木投手は翌日謝罪のために、相手バッターの宿舎を訪れお菓子をプレゼントし、
また、対戦相手へのリスペクトと感謝を忘れない日本チームの謙虚な態度など。
同じ日本人として誇らしささえ感じるのは決して、私だけではないはずです。
つい先日まで寒い寒いといい、身を縮めて歩いていた事が嘘のように暖かい今日この頃、桜の開花宣言も間近です。
日蓮聖人が残した書簡の中に、上記のようなに「桜」に関する記述があります。
寒く厳しい冬を乗り越え、武骨な枝から可憐な花を咲かせる桜のように、人の心の中には仏の心が宿っている。
だからこそ、仏の心に触れながら、地に足をつけ辛いことを乗り越えてこそ幸せがある。
日本には古くから生活の中に仏の教えが息づいています。
我々日本人がこれほど桜の花に魅了されるのは、桜の花の潔さ・可憐さ・強さ等によるものでしょう。
コロナ感染症により長い外出制限下にあった状況でも、毎年桜の花は変らず咲いていました。
行動制限が緩和された今年の桜は、きっと私たちの心に感動を与えてくれると思います。
「竹」にまつわる禅語に「竹有上下節」とあります。
竹には上下に沢山の節がありますが、上下はそれぞれ形も大きさも違います。
しかしその一つ一つには優劣の差はなく、しなやかで強い「竹」を形作る大切な物です。
人間社会でも一人として自分と同じ人はいません、親と子・上司と部下など社会的な上下関係はありますが、皆平等です。
男女の区別はあっても、差別であってはなりませんね。
ジェンダーフリーが盛んに叫ばれている昨今、今一度「竹に上下の節あり」という言葉の持つ意味を深く味わってみたいものです。
また「病は肉より起これば治しやすし、節より起これば治しがたし。」
と日蓮聖人は言われました。
節というのは厄年の事でしょう。この言葉を心にとめて厄年を穏やかに過ごしで行きたいものですね。
行雲流水的な生き方・・・?
風が吹けば風に身を任せ流されよう。
流れる川の中では無理に岩にしがみつくことをせず身を任せる。
このように、何事にも執着することなく生きていけたらどんなに楽であろうか?
いやいや、これはかなり難しい生き方かもしれません。
本来人間には、沢山の欲があり、欲するものを手に入れる為に時には人と争うこともあります。
その上で達成感という喜びを得るのです。
その喜びをすべて達観した人こそが「行雲流水」的な生き方を実践できるのです。
柳の枝はゆらゆらと風に揺れ、しかし折れることはないのです。