一日一編の法話 動画など
お金は人間が生きるための手段として必要です。
しかしお金のために一生を棒にふり、身を亡ぼす人もいます。
昔から「お金は汚く取ってきれいに使え」といわれますが、きたなく取るとは。悪いことの意味ではなく、汗水流し泥まみれになってということで、それを
有意義に使えと言っています。
あぶく銭は入るも早いが出るも早い「悪銭身につかず」で、お金は人を動かす即効力があります。
金銭に執着しすぎるとお金に振り回されて一生空しく過ごさねばなりません。
「ねぜ来ぬかとお金に聞けば、お金使いがあらいから。福は来る、辛抱する身に廻り来る」。
人間には眼に見えるものより見えないものの方が多くあります。 人と人との出会い、親子の出会いも見えない縁によって結ばれています。
この結びつきは「宿習(しゅくしゅう)」つまり前世から積み重ねてきた善悪が潜在力となって現生に及んでいるという、眼に見えない崇高なものです。
親は子を子は親を選ぶことはできません。眼に見えないものへの感謝の気持ちを深めましょう。
親子夫婦兄弟一つ家に生活するという「因縁」は今世だけの一朝一夕のものではなく、過去世からの宿業です。
親が子を愛し、子が親を慕うのは自然の情です。
江戸末期の歌人橘曙覧(たちばなあけみ)は、こんな歌を残しています。
「たのしみはまれに魚にて子等みなが うましうましと云うて喰う時」
家族みんなで卓袱台(ちゃぶだい)を囲み、からだとからだを寄せ合って楽しく食事している光景が浮かびます。
家族の愛情で包まれた愛。愛は、まず家庭から始まり家庭に住まうもの。
人生無上の幸福は愛されているということです。
「同じ水なれども蛇これを飲めば毒となり牛これを飲めば乳となる」(日蓮聖人)
万物はすべて縁によって異なった結果を生ずるものです。
平等に出発してもそれぞれ差別の世界を歩むものです。
「一切の生ずるところ一雨の潤すところなりしと雖(いえど)も而(しか)も諸の草木各差別有るが如し」(法華経)
私たちは自分のすることを自ら考え判断して日々を生きています。
しかし独りで生きているのではなく、異なるものが互いに持ちつ持たれつ協力しあって、陰陽和合して大きな営みをなっています。
しかし、人の欲望が強く他への敬愛の念を抱かず自然への感謝を忘れている現代では、人が人によって天地宇宙のバランスを崩し、
かけがえのない地球を、社会を、家庭を壊す自然破壊をお越しています。
「すべてのものには仏様の命が宿っている」という仏教の心を呼び戻し、自分勝手なエゴ(自我)を捨てねばなりません。